幅さん、本ってなんでしょう?


幅さん、本ってなんでしょう?

TMをご愛用くださり、本にまつわるあらゆることを扱うブックディレクターという存在をこの世に確立された幅さんに、本のこと、お仕事のこと、さまざまにお話をうかがいました。

幅允孝(はば・よしたか)
有限会社BACH(バッハ)代表。ブックディレクター。人と本の距離を縮めるため、公共図書館や病院、動物園、学校、ホテル、オフィスなど様々な場所でライブラリーの制作をしている。最近の仕事として札幌市図書・情報館の立ち上げや、ロンドン、サンパウロ、ロサンゼルスのJAPAN HOUSEなど。安藤忠雄氏の建築による「こども本の森 中之島」ではクリエイティブ・ディレクションを担当。近年は本をリソースにした企画・編集の仕事も多く手掛ける。早稲田大学文化構想学部非常勤講師。神奈川県教育委員会顧問。
  @yoshitaka_haba

- 幅さん、TMのシルクパジャマ、いかがですか? 

 

幅:うーん、とっても良いいです。なんだか着ていないくらいに軽くて心地よくて。 でも実を言うとお手入れの方法がよくわからず、汗をかかないように気を遣いながら着ています。まあ、汗を止めるのは難しいですが・・・。

 

- シルクのお手入れって、なかなか馴染みがないですよね。そして、繊細なイメージがあると思います。品質表示にある通り、手洗いが一番望ましいです。 ”弱いから”というより、濡れた状態での生地同士の”スレ”が白化の原因になるから、というのが主な理由。 でもたまに、どんどんアタリが出ることで風合いを出して楽しんでいる、というようなオツな方もいらしたり。様々にシルクの素材感を楽しんでいただけたらと思います。

ところで本日は改めて、幅さんに”本”について思いつくままにお話伺いたいと思っています。 どうぞ宜しくお願いいたします。 

 

幅:はいはい、どうぞ、なんでも聞いてください。答えられる範囲で応えます。 

 


“結節点”をなぞって

- 選書という、お仕事について。本ってすべてのジャンルが対象だと思うんですが、全部の世の中の事象を理解しながら分類していく作業なのですか? 

 

 幅:いやいや、すべてを理解してやれているわけではないです。やっぱり、もともと得意分野というのがいくつかありまして、たとえば僕の母は近代文学がとても好きな人でした。白樺派とか谷崎とか川端とか太宰とか芥川とか、そういった文学ジャンルを中心に当時は読んでいました。一方、大学では僕は法学部政治学科なんですが、美術に興味をもってどんどん美術ジャンルのものを読んでいき、、青山ブックセンターに入ってからは建築デザインの担当になって、、、というように都度つどのご縁で得意なものが増えつつ、それだけだと偏ってしまうので脳内地図を意識しながら広げていくと、自然科学と社会科学が繋がっていったり数学と現代美術がなんだか繋がる、とかいった感じで”結節点”みたいなものをもってどんどん地図が広がってきている感じです。世界の全部は知らないんだけど、知っている部分をつなげていくとどんどんその結節点が多くなってきて、多面的な世界の見渡し方ができるように少しずつなっているという感じです。  
それと、うち(BACH)は今でこそ公共図書館も多いのですが、もともとは企業図書館とか病院図書館とか動物園の図書室とか、かなり多種多様なところにライブラリをつくるので、もう本当に、毎度勉強なんです。 病院図書館でも通院型で認知症専門の患者さんのためのライブラリもあれば、緩和ケア病棟もあるし脳卒中のリハビリもあれば眼科、弱視の方と全盲の方で全然必要とされるものが変わってきて。。。 いただいた仕事で、”これどんな本を置こう?”ということを考えながら選書していくうちに”ジャンルの壁”みたいなものが取り払われていって、比較的自由になってきた、という今日この頃です。   たとえばね、僕は数学が得意じゃなかったんです。だから20年前に数学の選書をしろ、というお題があったら多分応えきれなかったと思います。けれど、勉強しているうちに岡潔のような数学者に出会ったり、森田真生さんの本に出会い等いくつか感銘を受ける出会いがあって、ちょっとずつ理解が深まってきました。うーん、なんというかキャリアを重ねるにつれて”嫌い”なものが減っていっている気がします。そしてこの感覚って、とても幸せな感覚です。

 

 ー  ”嫌い”っていうのは無知がゆえ、のものなんでしょうね?

 

 幅:そうそう、やっぱり未知って怖いものですよね。知らないものを怖いと思えるか、面白いと思えるか。紙一重なところだと思うんだけど、いまっていろんなものに”バツ”がつけやすい世の中なので、僕はなるべくいろんなものに”マル”をつけて生きていけると健やかに生き、そして死ねるなあと思っています。

 

 ー 様々な情報に簡単にアクセスできるようになったいま、情報をただしく整理整頓しないと溺れてしまいそうで、、、 体系的に整理整頓できる、ってすごいことだなあと社会人を経験して改めて思っています。図書館分類学っていう学問があることを今更ながら知ったのですが。 

 

 幅:そうですね。NDC(Nippon Decimal Classication)と呼ばれる分類を守って、本をアーカイブするメソッドを伝える学問ですね。確かに5年後か50年後かわかりませんが、”この本ありませんか?”と聞かれた時に正しく本が見つけ出せることが大事。一方で、リクエストが来るまではその本を出せない。なので目の前をビュンビュン通り過ぎている人たちのために、”こんな本がありますよ”と投げかける、ということも同時にやるべきだなと最近の僕は思っています。アーカイブを守るのと投げかけと両輪走らせないとこれからの図書館は存在していけないと思っています。 かつて図書館は無料で本が借りられるという役割りで捉えられていたけれど、最近・特にヨーロッパから始まったムーブメントで、”教育”と”コミュニティ”の場所になってきている。そこを担っていくときのバランスを考えながら図書館の仕事をしています。


刺さって抜けなくなる

ー これからの世の中救うのは図書館だと思っているのです。教育はすべての人が等しく受けられて良いと思っているのですが、なかなかそれが叶わない環境にある子供たちもいる。貧困の中拠り所がコンビニに止まり木することだったり、みたいなお子たちもみんな図書館に集まれば暖がとれてコニュニティに参加できて知恵や知識や出会いがある。そもそも全国の自治体がもっている施設なわけだから、わりと広くフォローできるのでは、と。そんなことをうっすらぼんやり、夢見ていたりします。

 

 幅:うんうん、実際そういう側面もあると思います。また、紙の本は、デジタルでいつでも改訂できるものと違ってよく推敲してある。書き手がギュっと必死で絞り出したものを受け取るってとても重要なことだと思う。もっと言うなら、みんなで動画をシェアしよう、とか、みんなでゲームにログインして島に行ってBBQしよう、とかどんどんいまのアミューズメントが”シェア”をベースに動いていますよね。他方、本ってやっぱりちょっと特殊で、一部の絵本とか写真集以外、基本一人でしか読めないものなんです。時間の過ごし方として孤独に陥らざるを得ないというか。本は”書き手”と”読み手”が1 on 1で向かい合う、精神の受け渡しみたいなもので、それはなんというかちょっと特別な時間になる。 いま世の中は情報や時間が、意識しないとシームレスにどんどん流れていってしまうなかで、「自分はどこに流れていくのか」とか、「その流れをどういなしていくのか」とか考えずにずっとたゆたっていると、表面的で、同質で、別にその人じゃなきゃいけない理由がなくなっていくような怖さを感じます。 それこそシンギュラリティの時代が訪れたときにAIに駆逐されてしまう。そんな時、他者である本を通じて、いろんな美意識や誰かの感情とか、そういったものに出くわしてアイディアが生まれたり、知ったり、そういったものをなるべく多層的にあつめて自分の考えをつくる、というようなことはとても重要だと思っています。


ー本は他者である、という意味がだんだん沁みてきました。


幅:そうそう、そして本は基本的にリプライがないじゃないですか。返事をしてくれない。だけど、何度も読んでいるとああこういうことかなあと自然に聞こえてきたり、勝手に想像して膨らませていったり、本はまだまだ可能性があるメディアだなあと思っています。

 

 ー では一方、雑誌っていうのは幅さんはどのような評価で?

 

 幅:「雑誌だからどうとか」って全然考えていなくて。書籍と違うとするとやっぱり写真を突きつけながら伝えるとか瞬間性に重きを置いていたりとかというところでしょうか。読み返しができるという点では書籍と変わらないこともある。 僕はデジタルでも本を読むのですが、ああ、これは読み返したいなと思ったものは紙で買い直すんです。で、買ったら安心して忘れられるんだけどね。まあそれはさておき、雑誌でも本でもデジタルでも重要なのは、その人の中に刺さって抜けなくなること。そして、刺さったそこを起点にその人の自分なりのその人らしい何か新しいことを見出すことが重要だと思うのです。

 

 ー “本”て基本的には読んだ人の人生に影響していくもの? 

 

幅:影響させようと思って読まないほうがいいと思います。最近、本に期待しすぎて、本質を射ていないと思うことが多々あります。無理に1000円の本を2時間で読んだら1000円と2時間分のゲインを得ようと思いすぎるみたいな。

 

 ー だから啓発本とかHOW TO本が売れるんですね。

 

 幅:そうですね。本って即効性より遅効性のほうが向いているメディアだから、いつ芽がでるかわからない、種まき的な行為くらいに思っていたほうがいいと思います。やっぱり重要なのは本のどこかのアイディアとか感情とかが刺さって、その人のどこかが駆動して、その人なりに動く、という作用が僕は大事だと思うから。必ず月に何冊読みましょうとか思いませんね。それより読んだ時にああたまには母親に連絡してみようか、とか10分早く起きるかとか、ちょっと自分のなかの日常が少し動く、みたいなことが起こるとよいですよね。

 

ー 本とはまた違う話なのですが、かつてレコードのジャケ買い、みたいなことをやっていて、それで新しいジャンルの音楽にたくさん出会った経験があるんです。でもここ最近はどんどん便利になって、少しだけ自発的に検索するとどんどんどんどん関連をお勧めしてくれて。耳心地は良いけれど衝撃がなくて。一方、車を運転する時にはずっとラジオを聞くともなしに流しているのですが、ここではまだまだ意図せず出会える発見があって。投げ込んでくれる図書館ってそれに近い感覚だなあと思いました。


幅:ノイズ、みたいなね。佳きノイズってありますよね。それはやっぱりわかります。本ってやはり売れなくなっている時代なんですけど、絵本に限っては10年前と比較しても105%くらい伸びがあるんです。ですが、絵本までは売れるのに、児童文学になると厳しい状況です。絵本はキャリアの長い方も現役で書き続けているし、異業種だけど絵本を手がけたり、活況なんですね。ミロコマチコさんとかヨシタケシンスケさんとか面白く新しい描き手も多々いらっしゃる。 でも、世の中には読み聞かせが多過ぎる、という気もしているのです。家で親が読み聞かせたり、図書館でも本屋さんでもそれこそYouTubeだって。子供の視線で見れば、ぼーっと待っていれば勝手に物語が向こうからやってくるという状況なんです。自分で物語を掴みにいくという感覚があまりないんです。 ”読む”って、自分で掴みにいかないといけない自発的なこと。「小さなおばけシリーズ」は幼年童話という絵本と児童文学の間のジャンルなのですが、あれってたとえば『スパゲッティがたべたいよう』のカタカナ部分に「すぱげってぃ」という平仮名のルビがふってあったり、要は平仮名だけ覚えた子が初めて自分で読めるものなんですね。絵本ほど絵はないし、文字も多いから最初は少し大変なんだけど、ただ、すこし辛抱して読み進めていると意外と読めるようになってくるし、頭のなかで小さなおばけが動き始める。

 

ー 自分のなかに入ってくる感覚ですよね? 

 

 幅:そうそう、その感覚。それを小さなころに経験できるかどうかは、とても大きいなあと感じています。テキストを読むのってある程度筋力が要るので最初に読んで脳内で広がって、おばけが動いたりそれを楽しいなあと感じることが若い頃に経験できるかできないかによって、のちのテキストを読む持久力と耐性が変わってくる気がします。そう言う意味で幼年童話はとても重要だと思う。もっと言うなら”自発的に何かを掴む”というチカラがどんどん失われてきてもいますよね。サブスクリプションのサービスはとても便利だし面白いのだけどやっぱりぽーっと見続けられてしまうものじゃないですか。でも読書だと気になる一行とか言葉でちょっと止まったりとか読み戻ったり、調べてみたり。コンテンツに触れる時間を自分でコントロールできる=自分の主体性が保てている状態だと思うんです。でもずーっと受け身で、あらわれるコンテンツを見続けていると、その人がその人らしく何かやれることがどんどんなくなっていってしまうんじゃないかな。 読書というのはどんどん迫る波の中を泳ぐ”泳力”を養うのにも役立つのではという気も勝手にしています。

 

ー 登場人物の容姿、声、周りの景色。物語をなぞりながら自分で好きに想像したいと思っていたので、実はとても漫画やアニメが苦手だったんです。

 

幅:抽象に対してどこまで寛容かつ想像力を働かせられるか。具体的でないものをどう自分の中で動かしていくか、とても自由度が高いものだと思うのですが、世の中どんどん苦手な人が増えていると感じています。
と言いつつ、僕は本を扱いながら本の限界を知ったりもします。

 

ー というと?

 

幅: 先ほども話にでましたが以前、佐賀県の通院型の心療内科で認知症の方のための病院のライブラリーをやらせていただきました。 それこそ患者さんや周辺の方々にインタビューをしながら選書をしていったんです。同時に認知症に関する本を読んで、例えば短期記憶より長期記憶のほうが、留まり易いということが書いてあったので、今朝何を食べましたか?って言う質問より、1964年のオリンピックや万博の本について聞いたわけです。そんな中、唐津焼好きの僕は中里隆さんの本を持って行ったのですが、あるお婆さんに「うちは鍋島だから!」と怒られてしまいました。鍋島プライドの逆鱗に触れてしまって。あとから分かるのですが唐津藩と鍋島藩は仲が良くないのです。
それってやっぱり本を読んでいてもわからない。行かないとわからない。 本は水先案内にはなるし、ある程度の基盤の部分はつくってくれるんですが、やっぱりそれだけじゃだめでそれを踏まえて自分で考えてどう動くか、がすごく重要だなあと思っています。

 


面白いから

ー お話しをうかがっていて、ずっと依頼者の本質的なニーズを引き出し”選書”という形で答えられているBACHだということがよくわかりましたが、他方、本を企画して作られたり。そういう自発的なプロジェクトがあると思うのですが、それを手がけられる際のモチベーションってどういったところからなのですか?

 

幅:単に面白いからじゃないでしょうか?  城崎温泉の話しましたっけ? 例えばこれね、風呂の中で読めるように防水になっている本なんです。
志賀直哉が白樺派の同人誌『白樺』で「城の崎にて」という作品を発表したのはご存知ですよね。 それがきっかけで、白樺派をはじめ、たくさんの書き手が城崎を訪れた経緯もあり、「歴史と文学と出湯のまち」という形容がされていたほどのまちなのです。 「城の崎にて」に登場し、いまも現存する旅館の当主やその仲間たち、若旦那衆はそこの課題に取り組みたいと考えていた方々で、お話をきいて実際まちを体感しました。 まちのいたるところに文学碑があり、風情あるまち並みで、カニの名所として美味しいものも多々あり、とても素敵なところではあったのですが、ではその「文学」が現在のまちなかに感じられるか、というとなかなかそういう取り組みが見当たらなかった。若旦那衆が考える、もういちど「文学のまち城崎」を発信するための方法を考えた時に、 「城の崎にて」を現代版にアップデートして楽しんでもらうことで、文学のまち城崎を再認識してもらえるのでは?と考えました。 ここまでの過程で、先にご紹介した若旦那衆と実際に自分たちでオリジナル書籍を企画・編集して城崎地域限定で発売する、「本と温泉」という出版NPOを結成しました。 第一弾は、城崎をともに訪れたUTRECHT(当時)の江口氏が、『注釈・城の崎にて』という、志賀直哉が当時どういう気持ちで城崎を訪れたのか、その作品は、志賀のキャリアの中でどんな位置付けなのか、といったような濃厚な「城の崎にて」の注釈を豆本として作成しました。 そして第二弾が万城目学さん著の『城崎裁判』です。 万城目学さんはもともと『鴨川ホルモー』という作品で京都を書いてデビュー。その後『鹿男あおによし』で奈良、『偉大なるしゅららぼん』で滋賀、『プリンセス・トヨトミ』で大阪を、と言った具合に関西の地場や歴史を取り込んで作品化するのがとても上手な書き手なのですが、なぜか兵庫だけ書いていなくて。”兵庫問題”といってファンには言われていたんです。 そんな折のこの城崎のご縁で、お声がけをしたら城崎まできてくださったのです。すべて自分たちで手がけているため、初版はわずか1,000部。全国にファンがいらっしゃる万城目学さんですが、城崎地域限定で販売するという大層なオファーを快く、むしろ面白いね、と受けてくださいました。城崎で文学を楽しむいちばんのロケーションはやはり温泉だろう、ということで、防水仕様にして、カバーはタオル。仕掛けは色々あるけれどもやっぱり一番大事なのは、読んで「ああおもしろかった」と感じてもらうこと。 万城目学さんは城崎に逗留中本当に丁寧にまちをご覧になり、『城崎裁判』の作中のいたるところに実際にまちとリンクするものが登場する。実際のまち歩きのガイド的な楽しみ方までできてしまい、何よりも作品として評価されているのだと思います。しかも防水本なので、温泉につかりながら読める。 結果本当に多くの反響をいただき、実際に文学がまちを活性化することができたり、次に繋がる仕掛けができるのだということを実感したプロジェクトでもあります。

 

ー 面白いですね。やはり文豪で知られる宿は都内にも全国各地にもありますし、大好きですけれども、現代のーーーという話はすごく新鮮に聞こえます。

 

幅:城崎は松葉ガニで知られるところでもあります。この「本と温泉」第三弾は湊かなえさんによるもの。 母娘が城崎でカニをたらふく食べる物語なんですけれども、この装丁はカニテクスチャをそのまま表現しています。カニの身をキュッキュっと出す感じを誂えました。これは本庄浩剛さんというアートディレクターさんが親身にやってくださって。とっても楽しくつくりました。

 


気持ちいい、が大事

ー それって、プロダクトアウトですね。本じゃなくて、なにかちがうオブジェクトでも、幅さんは作ることができそうです。

 

幅:たしかに図書館をつくっていくにあたって、たとえばここは動きを促すために硬めの床材で、こっちは滞留してもらえるように毛足のながいカーペットでみたいに選書以外にも携わらせていただく機会が増えてきました。 ”本”といういま届きにくいものをどうやって世の中に届けていくのか、分類・配架・家具計画とか結構やれることはたくさんあるので、面白いです。

 

ー じゃあたとえば。。。 ”TMと幅ヨシタカで考えた、「没入できるウェア」となると? 

 

 幅:あ、それでいうと、最近は熟読する作業をこのパジャマ上下を着て一気に集中してやりました。 すごく気持ちよくて。できれば裸に直接というかなるべく皮膚に近い方がいいです。 気になる方はショーツもありますからそちらもどうぞ みたいなオチでいかがでしょう?

 

ー いいですね!では近々企画会議をお願いします。

 


慮る、投げかける、耳を澄ませる、受け止めて思考を巡らす。他者との対峙。昨今オンデマンドなコンテンツが活況を呈すなか意識しなければ向かうことのできない時間であると改めて感じました。 ”本”とは、それを叶える貴重な存在。行きし戻りし、刺さって抜けないなにかを気ままに意識し、触れる時間を己でコントロールすることができるということも改めて貴重なことだなあと感じつつ。 TMandTMも、遅効性をもって愛用いただける存在になりたいものだ、と秋の夜長に思うのでした。
 幅さん、貴重なお時間を共有いただき誠にありがとうございました!